この記事を読んで、私が感じたことと言えば、「鬼滅の刃」の成功は本当にキャラクターの背景の深さに依存しているということだ。しかし、改めて思うのは、あまりにも多くのストーリーで、人間時代のそのキャラクターたちに同情を引き付ける背景が描かれていることに対する疑問だ。どこまで悲しい過去を持てば悪を「許容する」ことができるのか。あの鬼たちの中には、初めからどうしようもない悪党もいる。そう考えると、ストーリーは単なる悲劇の連鎖に過ぎない気もする。
人間であっても鬼であっても、その背景により見え方が変わるのかもしれないが、それが果たして全てを正当化できるのだろうか?例えば猗窩座や妓夫太郎の過去が相当に悲しいものであったとして、それが彼らが人を殺し続けたことを「理解」する理由でもあるのだろうか。誰にも彼らの過去を救うことはできなかったというのは確かに悲しい。しかしそれならばなおさら、なぜ彼らが殺されたとしてもそれが許されなかったのかを考えざるを得ない。
なぜか「悲しい鬼」の過去にばかり焦点が当たりがちだが、明白に悪である鬼たちの存在をどう解釈すべきか?本当に悲しい過去がないと「悪」は人の心に入り込めないものなのか。
果たして、「悪」である鬼をどう判断するべきか?
以下に続くコメントには、深い洞察と豊かな視点が描かれている。どちらにしろ、私たちはこうした矛盾を持った物語の中でどのようにキャラクターに寄り添うかを問い続けるべきだ。
コメント:
鬼の過去に同情するのは簡単だが、現実の犯罪者も同じく「悲しい過去」を持っているかもしれない。彼らが犯した罪を簡単に「仕方なかった」と言えるのだろうか?吾峠先生のメッセージは、時に悲惨な環境で何かが狂うきっかけになるのだということだろうか。見方を変えれば、こうしたメッセージがあるからこそ、人間の深い業を考えさせられる。
無限城編を観てからその気持ちが強くなったが、悪の描き方が上手すぎる。猗窩座みたいなキャラに同情する余地を与えながらも、最後まで悪役として描ききるのはすごい。ただ、時にその描写が強すぎて、何が正義なのかを考えずにはいられなくなる。果たしてどこまでが許されるのか、その境界を描くことができているのか。
現実世界でも、非道な体験がその人を「鬼」(心を)に変えることがある。アニメでは『鬼』という象徴が人間のグレーゾーンを具現化しているが、それがどこまで受け入れられるのかは別問題だ。『刀鍛冶の里編』でも、興味深いのはむしろ人間を鬼に変える周囲の環境がどう描かれるかだろう。
引用元:https://news.yahoo.co.jp/articles/46b4d536d69457184bbeb9a1f4d535d18f21ce5e,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]