「Breaking Down」の日々のドラマを垣間見ると、我々は壮絶さと滑稽さが入り混じった“ショー”として楽しんでいるのではと感じてしまいます。悲壮な表情でリングに立ち、何度も負傷しながらも立ち上がる姿は、一見男のロマンのように映ります。しかし、それは本当に“格闘技”と呼べるのでしょうか?瓜田純士の眼窩底骨折とその犠牲は、それを観る我々に一体何を訴えかけているのでしょう?「俺も頑張ろう」と言い聞かせ、目を背けてはいませんか?
「格闘技」の名に託けて、暴力を文化として昇華させることに意味はあるのでしょうか。試合後には病院送り、知らぬ者であればただの事故として伝わるこの出来事。これは魂を削る“戦い”なのですか、それともただの“暴動”なのか。その境界線はどこにあるべきなのでしょうか。視聴の数に踊らされ続けるこのコンテンツの行き着く先、衝撃的な響きだけで進むことは許されないのではないでしょうか?
普段、試合自体は一瞬で終わります。そのことが最も語られるべきなのかと思うと、それに動かされるメディアや視聴者の責任も避けては通れません。実際、命を削っている選手への礼として、我々は何を出来るのでしょうか。
この喧嘩イベントに光を見出すために、暴力的な衝撃の中に真実の価値を見つけることが可能なのでしょうか?
コメントセレクション
「このような闘いは、真の格闘技と呼べるのか。ルールを遵守し、精神と肉体を鍛え上げた先にあるスポーツとは異なるものを感じる。根本的に暴力が内包されているように思えてならない。」「個々が自らの意志でエンタメとして参加しているからといって、運営側の責任も軽減されるわけではない。グローブやルールにおける危険性を放置しているとすれば概念を再考すべきだ。」「本当に趣旨を問い直す時が来ている。培われた技術と互いのリスペクトを欠く事は、格闘技としての価値を喪失するだけであり、エンタートメントのようにカジュアルに消費して良いものではない。」今、私たちはこの存在すら問われるべき「Breaking Down」というイベントにどのように向き合い、何を伝えるべきなのでしょうか?
引用元:https://news.yahoo.co.jp/articles/556e3f33682b9212199cb632d83889b6495cf68c,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]