やれやれ、また『火垂るの墓』が放送される季節がやってきた。高畑監督があれほど「反戦映画ではない」と語った意味を、皆はまだ理解していないのか?本作は単なる戦争の恐怖を描いたものではない。本当に描いていたのは「世間」の冷酷さだ。物語の中で清太と節子を死へと追い込んだのは、おばさんでも戦争でもなく、世間の無視と冷淡さだった。批判されるべきは、戦争を支持した「世間」そのものだ。
しかし、問題はそれだけではない。清太が世間に適応できなかったのも、それが招いた悲劇も、結局は「戦争」に根付いた格差だったのだろうか?本物の地獄は戦争ではなく、人間そのものかもしれない。野坂昭氏の原作が描く清太のエゴ、彼の行動の裏に潜む無関心さは私たち自身の姿でもある。それを見て、私たちは何を学べるのか?
リアルな描写と救いのない結末。一度観れば忘れられない衝撃。だが観るたびに凹む。そんな作品を8月15日に見るべきかすら悩んでしまう。それでも「世間」に飲まれて忘れ去られてしまって良いのだろうか。
最後に考えたい。世間が招くもの、戦争がもたらすもの、人間のエゴが生むもの――観客に衝撃を与え続けた『火垂るの墓』が示す現代の恐ろしさ。
戦争の代償は私たちから何を奪ったのか?そして、それは劇中だけの話なのか、私たちの現実にも存在しているのか?
コメント:
子供の頃は、おばさんが悪役に見えましたが、今は清太の面倒を見ていた彼女の立場が理解できます。彼女の冷酷さも戦争の負の結果だった。一方、清太の世間知らずさは、戦争が生んだ教育の欠陥を感じさせます。
真に悲惨だったのは彼らが戦争によって孤立し、社会から孤立したことです。おばさんには清太たちの面倒をみきれない事情がありました。だが、それは彼女の個人責任だったのでしょうか?時代が彼女をどこまで追い込んだのかを考えさせられます。
本作では戦争が背景にあるだけで、焦点は「世間」による無視と冷淡さです。戦後の秩序が如何にして弱者を見捨てたのかが強調されます。清太の振る舞いも問題だが、彼を「世間知らず」として描いた社会の責任はないのか。
引用元:https://news.yahoo.co.jp/articles/38d72560e3fbccfd43434e031b11377aaa5c5aad,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]