「『ごんぎつね』を読んで『死体を煮る』という発言が小学生から飛び出すなんて、もう笑えない事態だ」。言葉は単なる伝達手段でなく、思考の鏡だ。子供たちの奇妙な解釈を聞くたび、国語の授業に未来を託せるのかと疑心暗鬼になる。これは単なる読解力の問題ではない。その奥深くに存在する、思考力の悲鳴が聞こえないだろうか。現代の子供たちは、文字の表面だけをなぞる一方で、深層に潜む意味を探る力を失っている。
「読解力低下」について叫ばれる昨今だが、そもそも私たちが育んでいる「教育」とは何だろう。思考力を促す教育の欠如がもたらすのは、ただの誤読ではない。それは子供たちが言葉の内側を覗く力を奪われ、行間の空白を無視する世界に住まわされていることだ。
国語教材の変更や教育改革で、実用的成果が求められているのも理解できる。契約書やデータ分析を読み解く力も大切だ。しかし文学作品を通じて、感情豊かな想像力を養うことも不可欠ではないか。なんとも皮肉だ、私たちが文化を築くために使っている言葉が、文化と人間性を葬る道具になりつつあるのなら。
**「国語力の崩壊が示すのは、言葉の理解力失うだけでなく、意識の崩壊かもしれない」**これは深刻に捧げられた警鐘で、無視するに値しない。
さて、これに対する教育界の真の回答はどこにあるのだろう。
ネットからのコメント
1、この授業ではこのような発言をしている子どもたちだけど、ちゃんと先生がフォローすることによって、葬式のことや昔の人たちの暮らしを知ることになる。先に全部教えるのではなく一度先に考えさせるあたりが良い授業だと思う。4年生でごんぎつねを授業で習ったことでかつての子ども達が体験して知っていたことを知識として獲得できる。体験格差を縮めてくれるのだから教育は大切。
2、これは国語力の問題じゃなくて、日本の文化を知らないからだと思う。冠婚葬祭で行う事ってなかなか子供って知らないし、私自身、大人になるまで法事自体行った事も無かった。お葬式等も身内が亡くなったのが大人になって曽祖母が亡くなった時に初めてだった。各家族が増えて、子供に冠婚葬祭時の事を聞いても知らないのが多いと思う。
3、今、親が70代くらいの子どもは、自分の家はニュータウンでも祖父母の葬式が田舎の自宅葬を経験した人も少なくないのでは。国語の時間に班で一人でも体験者がいたら「田舎の葬式はたくさんの料理をみんなで作る」ことが子どもたちで共有できる。しかし、今は祖父母の葬式すらセレモニーホールで行い、料理はデリバリだ。田舎の葬式体験者は学年に一人もいないだろう。それとは別に、最近のアニメに限らず、日本昔ばなしでだっておばあさんを大鍋で煮る描写がある。
現代の子どもたちの環境と知識と経験から、ごんぎつねでおばあさんの遺体を鍋で煮ると誤解するのは特別国語力が崩壊しているわけでもなんでもないと思う。今の中年が例えば源氏物語を初見で読んだら、同じようなとんでもない誤解をするだろう。同じ世代の常識は、別世代には常識ではない。
4、お葬式を経験したことのない小学生としてはあり得る発言なのかなと思った。最近は家族葬なども増えてきているし、お清めを参列者に振る舞う習慣も少なくなってきている。あったとしても斎場で料理が出てくるだけだったりするので、家でお清めを作って振る舞うなんて考えつかない子供は多いかもしれない。我々40代でも家での葬式やお清めは割と少数。何よりお鍋でぐつぐつはごんぎつねの核心ではないので、そこはサラッと先生が「昔は亡くなった人のお家でお葬式をすることが多くて、その時にお清めと言ってご飯を振舞っていたんだよ」と教えてあげたらいいと思う。ごんぎつねで話し合うべきことは別に沢山あるよ。
引用元:https://news.yahoo.co.jp/articles/00e9486bae20c62b0436d4d86d05f6f9a35a0685,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]