通知表を配らないというこの現象、一見素晴らしいアイデアかのように映るが、小学校の未来は本当に明るくなるのだろうか。「教師に余裕が生まれる」と言われても、それは本当に子供たちのためになっているのか、疑問が残る。
通知表を渡すタイミングの変更で教師と児童の「顔を合わせる時間が増える」というが、果たしてその時間は有効に使われているのだろうか。関りの時間が増えたところで、教師がその余裕を学生の教育に充てる保証はない。結局、通知表を渡さないことで教師の負担が減るだけの自己満足に終わってはいないか。
それでも「荷物が減るから嬉しい」と言った児童の声には一抹の真実がある。小学生にとって通知表なんて、大きな意味を持つものではないのかもしれない。通知表がなくても、子どもの成長は止まらない。では、どうやって評価を伝えるのか。
通知表を減らすことが、忙殺される教師の救いになるのかもしれないが、教育の質を落としてはいけない。真に重要なのは、教師と児童の真剣な対話ではないだろうか。本来、教育とは紙一枚の評価ではなく、その裏にある真剣なやり取りが鍵となる。
**教育とはテストの点数や通知表の言葉だけで測れるものではない。
**本当に必要なのは、教師と子どもたちが向き合う時間をどのように充実させるか、そこに情熱を注ぐことではないだろうか。通知表が年に2回になったからといって、教育の本質が変わるわけではない。問題の核心は、どうやって生まれた「あまり」の時間を価値あるものにするかにある。
ネットからのコメント
1、通知表の回数が3回から2回、さらに減っていけば、いずれ渡されなくなるかもしれません。そうすれば先生方の負担は減るかもしれませんが、大人になれば嫌でも競争社会が待っています。そうして通知表がなくなり、いわばぬるま湯で育ったような子どもたちが社会に放り込まれた時、現実とのギャップに戸惑い、奇麗事では通用しない場面も出てくるでしょう。日々、変化する社会の中で、子どもたちが本当に必要な力を育めるのか、丁寧な議論が必要だと思います。
2、「教員にゆとり」ではなくって、「教員が不当な保護者様からのクレームを避けるために評価をなくす」ってことでしょ。保護者様って、自分の子供の「あほさ」を棚に上げて「私の子供の成績が何でこんなに悪いのですか」って言いたい放題って聞きます。先生のためには、ラッキーです。ただ、世の中は、すべて「評価」されます。学校でそんな経験のない子供は「自尊心だけ高い」ご立派な大人になります。「評価」されて「劣等感」などを感じることは、極めて重要です。一時はやった「アドラー」などはその点を指摘していますよね。
3、中学校の三者面談しましたが、、高校受験に関して、ざっくりすぎて。希望校を伝える形逆に子の成績ならどこら辺が良いかきいても、今の時代はそういう指導してないみたいで。テスト結果を見せてもらい終わりましたよ。小学生はもっと簡単に学校きていれば良いみたいな。氷河期世代の自分には考えられないくらいゆるゆるですが、時代についていけない
4、二重丸、丸、三角とはいえ、ほとんどの子は二重丸だろうし、係がのってるだけなので、先生からの一言もないので、子どもが持ち帰ってきても、学期末だという実感も終業式だという実感もない感じです。ゆとりがありそうだけど、昔より授業数が少ないから詰込みになるし、タブレット授業用に作らないといけないだろうし、たいへんそうだなと思います。
引用元:https://news.yahoo.co.jp/articles/b9ba2c29423ea11dc789447c2b6dbba2e28146af,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]