民主主義の教室に潜む闇を何度となく目にしてきた。それはこのザリガニ事件が象徴するように、多数決が「正義の剣」として振りかざされる瞬間だ。子供の純粋な探求心が胴元の一言で切り捨てられる様、それはまるでドン・キホーテが風車に向かって突撃する姿に通じる。他者の無知を糾弾するのではなく、真実に到達する道を探る、そんな多様性の尊重がない限り、ただの数のゲームに過ぎない。
教育という名の舞台では、教師の一言が子供の心に深い爪痕を残し、かくも歪んだ知識が「真実」として君臨することとなる。だが、教師もまたひとりの人間に過ぎず、その言葉は神の啓示ではないことを、私たちは忘れてはいけない。独断的であることが時に必要となるが、それが偏見をもたらすとしたらどうだろうか?子供の世界には、声の大きさや多数決では計れない何かがあるはずだ。
この教室のエピソードは、民主主義の脆弱性をも露わにし、多数決が万能でないことを我々に思い起こさせる。しかし、ではどのようにして「正しいこと」が見極められるのか?それは科学的思考か、大人の指導か、あるいは個々の探求心に委ねられるべきなのか?
あなたは、もしあなたがその場にいる教師だったら、どう対処しただろうか?その瞬間、誰の心が救われ、また誰が失望するのだろうか?
コメント選:
1.「小学校の先生だって人間で、失敗もある。だけど、その失敗で子供の夢を壊すのは避けたい。先生は『みんなで調べてみよう』って言えたらもっと良かったと思いますけどね。教育ってのは知識を伝授するだけじゃなくて、興味を引き出すことも重要なんだから。」
2.「多数決で決めるべきことと科学的事実は違うんです。教育ってのは子供たちが課題をどう解決するかを学ぶ場です。先生はその手助けをするべきだった。自分で調べるって経験は将来に活きる、そんな場を提供して欲しかったですね。」
3.「確かに教育の難しさ、その場の判断力、先生の限界を感じる。でもそれを言い訳にしてしまっていいのか?先生の一言は子供たちにとって人生の指針になることもある。先生への期待が高いのは当然なんです。それに応えてくれたらいいな。」
引用元:https://news.yahoo.co.jp/articles/1ecd101d7cb0e1a971b78219206f8549d681cc41,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]