すっかりいつもの"パトカー追跡"のニュース。だが、今回のバイク事故記事を読むとまた考えさせられる。このような追跡が適切だったとのコメントが出ているが、果たして追跡の定義とは一体何なのか。このようなケースは、いつも警察が善悪の天秤に乗せられるが、逃走したバイクの運転手は最大の問題ではないか。信号無視して逃げるのはある意味自らに罪があると告白しているも同然だ。したがって、追尾の必要性は明白だろう。そう、ちゃんと捕まるために法律化すべきだ。
警察が任務として追跡することを問題視するのか、それとも逃げるという行為自体が最大の問題なのか。ここで私たちが議論すべきは、追跡の正当性よりも、逃げることで社会に与える影響だ。もし逃げることを容認する社会があったら、それは罪を犯しても許される社会と同義ではないか。それこそが大問題だろう。即ち、逃避文化を支持するか破壊するか、我々の未来はどちらに進むべきなのか。
そして、私たちはこうした状況で何を選ぶべきか考える必要があるのか。透明性を重視して追跡を報じるのか、それとも逃走者の背景に目を向けるべきなのか?
ここでいくつかのコメントを参考にしておく:
「追跡は警察の正常な使命」と言われるが、このような事故で追跡の善悪問わず警察を悪役にする報道姿勢は果たして適切なのだろうか?報道機関の責任も考えさせられる。
適切だと証言される追跡に対し警察側のコメントがあるが、記事に偏りがあるのでは?逃走者側の意見も取り入れられないものかと思う。
バイク衝突を「逃走中」と表現する方が的確ではないか?逃げた時点で自らの罪をとなり、報道はその点を重視するべきだろう。
質問はこうだ。悪質な逃走を報じることの是非、警察の追跡の正当性に焦点を当てることの是非、これらをどちらに重点を置くべきか?この報道姿勢が真に公平なのか?
引用元:https://news.yahoo.co.jp/articles/c8e5a5807833e8c3a7dc9c96938a49ec9c9cb46c,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]