いや、正直言って、学校の体育の常識、これ本当に見直すべきだと思う。**「みんなでやることが正義」**って、いったい誰が決めたのか。例えばマラソン大会。あれ、まさに「全員参加」って言葉が持つ重圧そのものだよね。みんなが走らないといけない、でも本当にみんなが楽しんでるわけじゃない。ある子には地獄の苦しみで、ある子には楽しい運動、そんな状態で「みんなで一緒に」とか、無理がある。
しかも、**「無理のない速さ」って言うけど、現実には速さを競うような展開になってるじゃん。息を切らして走る子どもたちが増えてるのに、それでも続ける理由って、ただ「毎年やってるから」なんて言われた日には、教育者としての責任をどこに置いているのかと問いたくなる。こんな無理をして、「嫌いなことを耐える力を育てる」**なんていう精神論を持ち出すなら、いっそのこと学校行事自体全部見直した方がいいんじゃない?
ドッジボールもそう。これ、楽しい子もいるだろうけど、**「みんなでやらなきゃダメ」って強制されるの、めっちゃ不公平だと思わない?結局、強い子どもが目立って、苦手な子が「的」にされるだけ。あれ、教育的にどうなの?協力とか思いやりって一体どこに行ったのか。
子どもたちが成長するためには、個々のペースで楽しめるものが必要だし、「みんな」**という言葉で、全てを一括りにするのはもう時代遅れだと思う。
「みんなが好きなもの」が必ずしも「みんなにとって良いこと」にはならない。そのことを見過ごすな。
ネットからのコメント
1、最近の世の中の風潮として、出来ない人、やりたくない人に合わせすぎじゃないでしょうかそういう意見を無視してはいけないのは間違いないですが、逆に出来る人、やりたい人に我慢をさせているだけだと思います必要なのは選択肢を与えることで、極論に振るような考えは絶対に間違っていますそもそもできない、やりたくないでは絶対に世の中回りませんからね嫌なことを回避し続ける習慣は絶対によくないです
2、こういう、バリアフリーやめてほしいです。行事のやり過ぎには歯止めかけるべきですが、得意不得意はそれぞれ。マラソン大会(距離は配慮を)あり、合唱コンクールあり、水泳大会あり(今どきは別の視点から、無理かな)、、本来はいろんな行事があり、いろんな生徒が輝いていいのではないかと思います。
3、身体が大きいのに少し鈍くさくて…っていう小学生の頃の自分。苦手だったドッジボール。ある日クラスでも強い球投げる子が僕を狙って投げたボールをバシン!と両手で受け止める事が出来た。それが凄い自信につながって段々と強い球が受けられるようになって、球技苦手な自分が中学ではバスケットボール部に入り、途中からレギュラーメンバーになり、結果と大会まで進む事が出来ました。
苦手な事を克服できると目の前の景色がこんなにも変わるのかって今の子どもたちにも味わってもらいたいし、それが叶わなかったとしても他の分野で自分なりのブレイクスルーを味わって貰えたらな…と思います。
4、私は学校の体育が嫌いでした。ひ弱だった私は「お前がいると勝てない」とよく言われました。直接言われなくても「あ~あ」と大きくため息をつかれたり、私がいない設定で戦略を立てられたりしたものです。楽しいと感じたことなど一度もありません。でもやらなければいいとは思いません。辛い思いをしましたが、授業や行事を休まず最後までやるのが私の子供ながらの矜持でした。今はそのように意地を張って頑張ってよかったと思っています。出来ない悔しさも、遅くてもやり遂げる達成感も知っているので仕事や生活で役に立っています。勝つ喜びや負ける悔しさを子供の時に味わうのは重要な情操教育だと思います。今の子供たち、どうか強く優しい大人になってほしいと願っています。
引用元:https://news.yahoo.co.jp/articles/b6a7b3fc540cece66bf5147e26a2c08807bbc0f4,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]