懐かしの駄菓子たちが次々と姿を消していることについて、正直なところ、一体何をしているのかと言いたい。ノスタルジーに浸るのは結構だが、駄菓子が「懐かしい」と言われるだけで終わるのはあまりに悲しい。懐かしいと言うことは、すでにその味を忘れてしまっているということに他ならない。
この駄菓子論争、どうにも腑に落ちない。あのころのように子どもたちは自らを甘やかし、ワクワクしながら駄菓子を選ぶことはなくなったのか。いや、それは違う。駄菓子は単なる子どものおやつではなく、大人にとっても過去の思い出を味わい、目の前の現実から少し距離を置くための手段だ。駄菓子は、思い出への旅券なのだ。
メーカーの廃業や、終売のニュースに悲しむ声もあるが、普段から応援をしなかった我々消費者の責任も無視できない。売り場が縮小し、数が減っていくのは、だからこそ私たちがもっと動く時ではないか。「ありがとう」と言うだけではなく、今ある駄菓子を買って支えることこそ、大人の務めだ。
駄菓子屋を守るためには、たまにのノスタルジーではなく、日常の中で育む継続的な愛が必要だ。そして、消えていく駄菓子たちへ、レクイエムを捧げるつもりで終わらせてしまってはならない。
駄菓子文化が終わるのではなく、我々が終わらせるのだ。
ネットからのコメント
1、結局みんな駄菓子が無くなるのは寂しいと言ってもそれに懐かしさや珍しさしか求めてないんですよね、ロングセラー商品のように日常的におやつとして買おうとは思ってない人が多い時点で残念ながらもう需要はないということビン牛乳なんかも製造終了のニュースなんかで「たまに飲みたくなるのに残念」というコメントを見ますがメーカーからしたら「たまに飲む、じゃやっていけないんですよ…」というのが本音でしょう
2、駄菓子は1個10円や20円と言う単価の安い商売になっていて、なおかつ1円単位の値上げもしにくい部分もあるので、本当に商売的には難しいと思う。特に原材料もそうだが、資材の高騰がかなり利益を圧迫しているのだと思う。駄菓子は個包装が基本なので、単価の安い駄菓子には、値上げ分がまともに被ってくる。なかなか製品の特徴上、子供相手になるので継続的な大量販売と言うのが難しいし利益も上がらない。今までは、製造者の好意によって成り立っていた部分が大きかったのだと思う。
3、近所に駄菓子屋が無く、駄菓子屋に行った事が無いので、駄菓子屋に行く事が憧れでした。遠足のお菓子はいつもスーパーの駄菓子コーナーで購入するか、おかしの里も〇やに車で連れて行って貰って購入してました。犬山の明〇村の中にある駄菓子屋さんに、コレがアニメとかに出て来る昔ながらの駄菓子屋かとテンション上がって爆買いしたりしてました。
糸引き飴には今まで出会った事が無いので、可能なら、終わる前に出会いたかったです。
4、店も減ってるし、何より子どもの数が減ってるからね。昔小学校の前にあった駄菓子屋は毎日ひっきりなしに子ども達がやってきて常に賑わっていたものだけど、そんな光景はほぼ完全に失われてしまったもの。今の子ども達、放課後に遊びに行く事すら稀だしね。そもそもが安くても数売って利益を出すビジネスモデルなだけに、ターゲット層が減少してしまえば維持するのすら難しいよね。
引用元:https://news.yahoo.co.jp/articles/36d1d5de21632f0d1cd1e30c9c0b1e7409b91b36,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]